1945年(S20年)8月、第二次世界大戦は日本の敗戦をもって終結した。中国の徐州というところで私の父は兵役についていた。戦争が終わると多くの日本兵が捕虜となった。捕虜として労役に従事し、首を長くして帰国を待ち続けた。
昭和21年4月、その船は多くの日本兵を乗せ長崎県佐世保に接岸。やっと祖国の地に立てた。うれしかった。佐世保港は満開の桜だった。自然と涙があふれてきた。そしてそれは決してとまることがなかった。
父が死にました。桜を見ると涙する父でした。享年95
花見と花火の街、愛知県の岡崎で生まれた。お国のために、地域のために、家族のために、最後は100才目指し自分自身のために、よく頑張った。すごい父だった。大好きだった。戦前の岡崎市には「本多賞」という特別な賞があった。成績優秀な小学生、中学生がその学区でたった一人だけ選ばれる。父はその栄誉に浴した。もし戦争がなければ、もし徴兵されなければ、もし今のような平和な世の中だったなら、その才能と努力で立身出世もできたであろう。しかし父はそれを愚痴ることなく、戦前・戦中・戦後・平成と懸命に生き抜いてきた。
ものすごい努力家で多芸多才だった。琴棋書画(きんきしょが)(音楽・囲碁将棋・書道・絵画)すべてこなした。バイオリンや社交ダンス、囲碁、水墨画などなど。バイオリンは毎日毎日練習していた。また年賀状の作成において、その才能は輝き続けた。はがきというキャンバスに水墨画や水彩画を描き、毛筆で年頭のご挨拶を回文(前から読んでも後ろから読んでも同じ読み方の文)をしたため、宛名も毛筆書きで約300枚、50年以上続けた。しかしその努力を決して他人にはひけらかさなかった。謙虚だった。晩年は将棋を毎日打った。懸命に生き抜くその姿勢は、周りの人たちに多大な影響を及ぼし続けた。
死は残酷だ。亡くなるとすぐに葬祭業者を決めなければならない。病院の霊安室から葬祭場へ亡き骸を搬送すると係の方との打ち合わせが始まる。長時間。その打ち合わせの最後に家族全員で頼んだ。「父にサクラをどうしても見せてやりたいです。祭壇に桜を飾れませんか。お願いします。なんとかなりませんか?」と頭を下げた。日本国中探してみますが、もし見つからなかったらごめんなさいという回答だった。2月下旬、無いかもしれぬ。
告別式当日、左右一対のさくら木が祭壇にありました。父さん、サクラが咲いたよ。見える?本物のさくらだよ。95年間よくがんばったね、ありがとね。
桜咲き 母となかよく 花遍路
南 無 阿 弥 陀 仏
四国八十八ヶ巡りを亡くなった母と夫婦ふたりで2度行きました。四月初旬忌明けの頃にはあちらの浄土でお遍路さんか?夫婦仲良く、長旅を楽しんで下さいね。ご苦労様でした。
とてつもなく立派な人生でした。人生とはいかに生きるべきかということをたくさん教えてもらいました。残された我々家族は父さんに教えてもらった、「与えられた条件を嘆くことなく、その条件の下で懸命に頑張る」所存でおります。育ててくれてありがとう。空の上からどうか家族を見守ってください。ずっと見守り続けてください。よろしくお願いします。
いままで本当に、本当にありがとうございました。多謝
夜空の星がまた一つ増えました。
合 掌