「自分を鍛える」高1 お寺での修行(その15)

「親の覚悟」 副住職との話しの途中に次のような合いの手が何度も入った。「親がそれをよく許したねぇ」。この言葉に凝縮された「親の葛藤や覚悟」を当時の私は全く気付いていなかった。

 

 5年間の保育園通いや小1からの家庭内料理や中学校での部活はともかく、「小学2年生からの新聞配達」を親が許したことを指して言っているのだ。小2、小3、小4と計3年間続いた夕刊の配達。交通事故のリスクがあまりにも大きい。危ない。徒歩での配達ではなく自転車での配達だからさらにリスクは大きい。親が諸条件を全部洗い出し、メリットとデメリットを明らかにし、検討し、夫婦での議論を経ての最終判断はかなりの「覚悟」を伴ったはずである。でも高校1年生の私はそのことに全く気付いてすらいなかった。親の心子知らず。

 

 家が貧しいから新聞配達を子供にさせたわけではなかった。子供の自立性、規律性、責任感、そして「忍耐力の養成」が主目的だった。我慢のできる子にしたいという親の考えである。実際私が小学校入学当時の我が家の経済状況は「中の中」で、裕福ではなかったが特に貧しかったとは言えない。普通だと思われる。

 ところが10才上の兄の小学校入学当時はかなり貧しかったのではないかと思う。それは昭和32年頃で戦後約10年が過ぎた頃である。当時は日本中のすべての世帯が貧しかったのではないか。その当時写真館を経営していた親戚がいたせいか、当時の生活がわかるスナップ写真が我が家にはたくさんあり、それらの写真からその様子が分かる。カギ裂きになった学生服は丁寧につくろわれ、穴のあいた靴下は強度を落とさないように修繕され、そしてまた穴があいても何度も何度もつくろい直すのが普通だったことが、どの写真からも見てとれる。衣食住における「使い捨て」の風潮はその頃は皆無であった。貧しさや質素な生活の中で「もったいない」という感覚や「ものを大切に使う」という日本の美徳が生活に満ち満ちていた。壊れたら補修して使うのはあたりまえであった。

「戦後の日本の、経済的な貧しさ」が昭和30年代には確かにあったのであろう。戦争後の10年間は生きることに精一杯で明日をもしれぬ、ぎりぎりの生活だったに違いない。「下を見て生活し、上を見て働く。」それが「すこしでも豊かになりたい」というエネルギー源となって高度経済成長へと繋がり、1968年(昭和43年)にはアメリカに次ぐGNP世界第二位の国として経済発展をとげた。私は小学校の2年生だった。

 

 平成10年4月、私の長女の小学校入学の祝い膳の時だった。私ども夫婦、娘二人、義理の母、そして私の父と母の計7名での長女の成長の節目の食事会が開けた。祝い事があるということはありがたく、幸せなことだ。この時私は、自分の小2の時の新聞配達を親として許可するかしないかの判断した時のことを知りたくて、父と母に質問した。

 すると父が「小2の子供の新聞配達」に関して、親としての葛藤と覚悟について次のように語り出した。「大正生まれの我々の世代は、戦争に行かされた。戦闘機の機銃掃射を受けたり、空爆された街が炎上するのを見てきた。戦争を通して『生きるということ』をもの凄く考えさせられた。

 生きるというのは、衣食住だけではダメだ。それに加えて教育と訓練がいる。我が家の子供の教育メニューに、新聞配達をさせるという選択肢はなかったので、新聞店の店長が我が家を訪問したいという申し出を『これはいい機会かもしれない。チャンスだ。』と考えた。お父さんとお母さんは『我が家の子育ての方針』についてかなり話し合った」と聞かされた。初めて聞く話だった。私自身が小学校に入学してから30年が過ぎていた。

 

 私は小学校の低学年の自分の長女を見ながら「この幼子に新聞を配達させること、新聞を配達するのを許可すること」を親として決断できるか?という自問自答を何度も何度もした。親だからこそイエスと言えるのか?それとも親としてはまだ未熟だからイエスと言えないのか?

 

 私が「親に成りきれてないのかなぁ?」と質問すると「親になるというのは三段階ある。」と父が言った。

 「女は子供を産めば親になる。男は子供に名前を付けることで親になる、というのが第一段階。」「次は食べさせていくことで親になる。親はそのためには当然働かねばならない。」「最後は、子供の自立を目的とした訓練やしつけをすること。これが第三段階。これが実に難しい。大変なんだ。本当に難しい。」

「親は子供より早く死ぬわけだから遅かれ早かれ居なくなる。だからいつ親が居なくなってもやっていけるようにするのが親の努め。子供を自立させるためには、親が子供のために家でしていたことをすこしずつ子供にやらせてみること。時には失敗させてみること。そこから学ばせること。失敗してもいいから挑戦させること。そうすれば強い子になってくる。打たれ強い子になってくる。親も強くないといけない。親が強くならないと、子供は甘えてばかりいるダメな人間になってしまう。第一段階と第二段階はともかく第三段階は親側の覚悟がかなり要る。難しい作業だ。」

 

 昔から「獅子の子落とし」や「可愛い子には旅をさせよ」などの故事成語やことわざは、子供の成長段階を見極め、その成長が一定の段階を超えた時、「親としての覚悟」が必須となり、親が子の真の成長を願えば願うほど「厳しい親」となって子供の「本当の成長」を促せるということを言っているんだなぁということを、この時に初めて理解した。

 

 この日を境に、「やっぱり俺にはできないなぁ、小2の、自転車での夕刊配達。許可できないなぁ、苦しいなぁ、俺は親としては「ひよっこ」だなぁ、まだまだだなぁ、、」と反省の日々が続いた。

悲しかった。

(つづく)

 

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2020年

8月

11日

外山滋比古先生が逝かれました(追悼)2020年8月11日

 

 

 東京都文京区小石川のご自宅から勤務校のお茶の水女子大学まで徒歩で行かれる。所要時間は約7分。春日通りの横断歩道で信号待ちに引っかかれば、私のチャンスは約1分増える。

 

 秋に行われる寮祭の主催学年である私は、寮のOBである外山先生にカンパをお願いしようと考えていた。1985年(S60年)の秋、今から約35年前のことである。

 

 我々の学生寮は、愛知県の三河地方出身者が入寮する「三河郷友会」という学生寮である。出身地が同郷のため、全員がネイティブの三河弁だ。その三河寮の2階の洗面所の窓から眼下に目をこらし作戦を練った。

 

 平日の朝は、同じ時間、同じ道でお茶の水女子大学に歩いて行かれる。その歩くスピードはびっくりするほど速い。歩くというより小走りに近い。ほんのわずかな時間で私の視界から消えてしまうのだ。この建物の二階の窓から、何度も何度もそのお姿を拝見した。

 

 私は外山先生を「小さな巨人」と呼んでいた。身長が低かったことからそう名付けた。今思えば大変失礼な話だ。小さな巨人は、背広姿に大きな黒いカバン。そしてインパクト満点の黒ブチの眼鏡。「知の巨人」は小柄だった。

 

「外山先生、おはようございます。お急ぎのところ、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」歩行者用信号が緑の点滅から赤になった。

 

 「三河郷友会学生寮の寮生の高原と申します。おはようございます。実はもうすぐ寮祭ですのでOBの方々にカンパしていただけたらと思い、礼を逸してることはじゅうじゅう承知しておりますが、意を決してお願いにあがりましたぁ。」

 

 勢いが肝心だと思い、淀むことなく、大きな声で、先生の目を見ながら力を入れて申し上げた。 

 

 1983年に刊行された「思考の整理学」は、その年の大ベストセラーだった。大学生協で平積みされた単行本は、口コミも手伝って月が変わるごとにその販売面積を増やしていった。

 

 『学校教育はグライダー人間を作りすぎ。自分のエンジンを搭載し自分自身で飛べる飛行機人間を育成すべきだ、その目的に対して最も大切なことは思考力というエンジンだ。そのエンジンを持たなくてはならぬ。そのためには考えるということを大事にしたい。考えて思いついたアイデアはカードに書こう。そして発酵するまで待つべし。

 

 起床後からお昼までの午前の脳の活動は思考活動にはもってこいだ。無我夢中、散歩中、入浴中の三中は思考には最適。etc・・・』

 

 数年後には文庫本となった。いつしか大学生の必読書のランキング上位となった。甲子園で活躍した根尾選手が2019年の秋、中日ドラゴンズにドラフト1位で入団契約した際、愛読書を問われ、外山先生の「思考の整理学」と答えたことで大きな話題となり、彼はは大いに株を上げた。

 

 「三河寮ですかぁ。はい、わかりました。今お時間、ありますか?」

 

「もしあるんだったら、このまま私の研究室まで一緒においでん。来れる?急いどるもんで、時間がないんだわぁ・・・」

 

 「えっ!!研究室??」

 

 お断りする理由などあろうはずがない。コテコテの三河弁の先生のあとをノコノコとついて行った。

 

 お茶の水女子大学の先生の研究室に、恐る恐る足を踏み入れたあの緊張感と幸福感。「ハイっ」と渡された寮祭へのカンパ。両手で押し頂きながら拝受した。

 

 もちろん先生のご自宅の住所、所在は知っている。わが学生寮のご近所。しかしご自宅にお伺いすることは絶対にしてはいけないと思っていた。執筆などのお仕事の邪魔をしてはいけない、筆を折るような野蛮な訪問は決してできない。先生の書斎から綿々と生み出される研究成果を阻害するようなことは絶対にできない、許されない。思案の末、「徒歩での通勤途中」にお声をかけさせていただくことを決定した経緯などについて申し上げた。勢い余って「思考の整理学」と「省略の文学」の、自分なりの書評をも生意気にもお伝えしてしまった。蛇足だった。でも先生は黙ってうなづいておられた。笑顔だった。目がやさしかった。

 

 私はとてもハッピーだった。カンパをいただけたからうれしいのではない。カンパを頂くというミッションを完遂した上に、尊敬すべき偉大な人物の許しを経て、大学のご自身の研究室である「聖域に入ること」ができたことが、恐れ多くもうれしかったのだ。強烈なカタルシス(魂の浄化)があった。

 

 先生はいつも微笑んでおられた。愛知県の西尾で生まれ、大学生として上京されてからはずっと文京区小石川で生活された。そうして年月が過ぎ、300をこえる著書が刊行された。そのどれもが輝きを失わずに、新鮮で鮮烈な閃光を放っている。どれを読んでも面白い。借り物ではなくオリジナル、古くなく新鮮。本物だからであろう。

 

 近著では「三河の風」(2015年展望社)は特に素晴らしい。明治維新後、愛知県三河地方は明治政府から冷遇された。徳川家の発祥の地だからだ。地元民は政府に頼ることなく、自力で、自分たちだけでやっていこうという独立独歩の気風、風土が醸造されていった。その中で自分らしく、かたくなに生きていくことを学んだ。その生き方は、あたかも蚕(かいこ)に似ている。三河地方は養蚕が盛んな土地で、農家は屋根裏で蚕を大事に育てた。蚕に「お」をつけて「お蚕さん」と呼んで大事にした。蚕は桑の葉を食べて白い糸を吐き、繭(まゆ)を作る。色のついたものは色あせるが、白い繭は色あせることなく純白の糸となる。だから「蚕のように私は生きていきたい」という、「三河人」外山先生の強い信念に、共感を覚えずにはいられなかった。

 

 また健康維持のため、皇居一周約5キロを、ご高齢にもかかわらず毎日散歩される外山先生のテレビ番組を数年前に見た。たぶん「三中」の散歩に違いないと思ってそのお姿をテレビの画面越しに拝見した。その先生が2020年7月30日、胆管ガンで亡くなられた。享年96

 

 今週はお盆がくる。先生にとっては新盆だ。わたしは自分の塾で夏期講習の授業をする。中学生の夏期講習用の国語のテキストの問題文は、長田 弘(おさだ ひろし)、小此木 啓吾(おこのぎ けいご)、串田 孫一(くしだ まごいち)など、そうそうたる方々の文章だが、この30年間、学習用のテキストや大学入試の現代国語の問題文への登場機会ダントツのトップは言うまでもなく、外山先生だった。そしてこの先の30年間もたぶんそうあり続けるであろう。知の巨人は死なず、永遠なり。

 

先生、お世話になりました。

先生、本当にありがとうございました。

先生、同郷人として誇りに思っておりました。

先生、これからも今まで以上に先生の文章を精読していきたいと思います。

 

ありがとうございました。

( 合 掌 )

 

2020年8月11日 記