「苦労は買ってでもしろ」 昭和51年の8月になった。もうすぐお盆だ。お盆の頃、お寺はものすごく忙しい。盂蘭盆会(うらぼんえ)のためにまず忙しい。そして次にお施餓鬼(おせがき)で忙しい。施餓鬼は一年のうちのいつでも良いのだが、檀家の方々はお盆のころにまとめてすることが多く、お寺は猛烈に忙しくなる。
8月13日からお盆は始まる。ご先祖さまの魂が13日の夜、各家庭に戻ってこられ、3泊4日し16日の夜、彼岸へ帰っていかれる。13日の夜に「迎え火」(門火)を焚き、16日の夜に「送り火」を焚いてお見送りをする。京都の大文字焼きの送り火が有名だ。
「ことしのお盆の法会(ほうえ)は準備から例年以上に忙しくなりそうなので、高原君も手伝ってください。住職があなたとゆっくり面談している時間がたぶん取れないと思うけど、以前あなたに出された『宿題』は8月15日までに私の方に出してください」と副住職がおっしゃられた。
副住職に返事をしながら頭の中ではご住職のことを考えていた。最近のご住職は、かなり疲れがたまっているようにお見受けする。夏の暑さや忙しさで疲れ、そして回復するどころか、どんどんたまっているように私には見えた。
さかのぼること約30年前、「シベリア抑留」という、酷寒の地での劣悪な生活環境と過酷な労働で膝や腰を痛められたご住職だ。冬になるとその古傷が今でもかなり痛むらしい。
そもそもお寺の僧侶は、職業柄、膝を痛める可能性が高い。朝2時間、夜2時間、1日に最低でも4時間は正座をしなければならない。さらにお勤めの読経の最後の最後には、「南無阿弥陀仏」と唱えながら正座→座礼→起立→立礼→着座を10回繰り返すのが浄土宗の所作なので、膝や腰を痛めている僧侶にとっては大変だ。かなりの痛みに耐えなければならない。ご住職が膝の痛みをおして法要をお勤めになられていることは、末席の私にもひしひしと伝わってきていた。
「ところで高原君、少し話の出来る時間がありますか?」
副住職からの声かけに「はい、大丈夫です。たくさんありまーす」と返事をしたら、「少しでいいよ、残念ながらこちらにたくさんの時間がないよ。」と笑われた。「ひとつ聞きたい事があるんだけど。」ハイ、「よーく辛抱してこのお寺についてきていると思いますが、なんでそこまで高原君が我慢強いのかと住職が感心しているし、わたしもそう思ってます。なんでかな?その理由?」
えっ、何とおこたえすべきか困ったがそのようにおっしゃってくださるのは光栄だ。「あのぉー、何と言っていいか分からないですけど、自分からこのお寺で修行させて下さいと無理なお願いをした以上、与えられた責務を果たしたいし、自分の責任は自分で取りたいですし、言い出した以上は尻尾を丸めて逃げ出すこともできないですし、だから一生懸命に頑張ろうという気持ちだけでやってます。」と申し上げたら、「うん、それはわかってます。それではなくて、それだけではなくて、何か別のもの、何か忍耐強いものを感じます。おそらく小さいときにその忍耐力が養われた何かがあると思うのだけど、その何かを知りたいと思ったので・・・」
幼少期の頃のことをあれこれ考えてみた。「苦労は買ってでもしなさい」
親から毎日のように言われた言葉だ。大正13年生まれの父は20才で徴兵され戦場に行った。昭和2年生まれの母は、兄ふたりが戦死している。戦争で青春時代を奪われた父と母との間の次男として私は生まれた。父は公務員、母は看護婦(看護士)だったので、2歳から浄土真宗系の保育園に行った。行くのが嫌になったことは一度もなく、本当に楽しかった。お迎えが誰よりも遅かったのでほかの園児が帰った後は保育園の運動場で辺りが暗くなるまでひとり遊びをずっとしていた。ひとりで練習して自転車にも乗れるようになっていた。鐘つき堂の横の大きなイチョウの木に登って足で枝をゆすって銀杏を落とすのが面白かった。保育園には5年間通った。小学校1年生の時、近所の小6のお兄ちゃんが夕刊を配達していた。自転車で毎日ついて行った。配達の順序は自然に覚えた。そのお兄ちゃんが中学校に入学すると部活で夕刊の配達できないということで、私に白羽の矢が立った。迷わず分かったと返事したが、新聞店の店長が家に来て親と話した。承諾するかどうかについて親はかなり悩んだと後になって聞いた。その新聞配達は結果的には小2になったばかりの私の仕事になった。生まれて初めてのアルバイトで、日曜日以外の週6で配達した。部数は約80部、80軒。自転車に乗り約1時間半かかった。小2から小5の終わりまで、雨や台風や雪にもめげず4年間休みなく続けた。新聞配達を終えて新聞店に戻ると翌日の朝刊に入れるチラシの折り込みを30分ぐらいやった。チラシの折り込みをやると新聞店の店長がお駄賃をくれるので、帰りがけにアイスクリームを買ったり、寒い時期は肉まんを買って食べるのが楽しみだった。
うちは両親が共働きなので、家に一番先に帰った者が家族4人分の夕食を作るというのが我が家のルールだった。小1から適用されるので小学校の入学式の前日、「あしたからお料理の練習をしてもらう、10才上のお兄ちゃんが料理の先生だ。」という説明が両親からあった。まずは生きるための食べれるものを作る、けがをすることなく安全に作る、火事を起こさぬよう、火に気を付けて作ることが目標だった。兄がまずやって見せ、少しずつ覚えた。兄の教え方もうまかった。少ししてから料理の審査会、品評会を年に数回おこなうようになった。その課題が学年が上がるにつれて難易度も高くなった。小1はご飯を炊いて野菜いためとみそ汁など、一汁一菜に海のものと山(陸)のものを必ず入れることを基本とし、たまご料理、焼き飯、ラーメン、うどん、そばなどだった。小2はシチュウー、カレーライスなどの煮込み料理。小3はコロッケ、メンチカツ、とんかつなどの揚げ物と焼き物。小4は肉じゃがなどの煮物や冷菜、小5はオムライスなど彩りや見場のいい料理や天ぷらや揚げドーナツや寒天やゼリーなどデザートやお菓子、小6は茶碗蒸しなどの蒸し料理が課題となった。大量の油を使う料理法は家族がいる時のみ許可された。小1だった昭和42年、我が家には電気炊飯器はあったが保温機能が付いた電子ジャーはなかった。その当時、世の中に保温付き電子炊飯ジャーもなかっし、電子レンジもなかった。それが普通だった時代だ。「これ、チンして食べてね」という日本語は昭和48年以降に出来た日本語だと思う。だから炊きたて以外のご飯は常に冷や飯だった。それを調理して焼き飯にすることはとても大事なことだった。ちなみに電子レンジが我が家に来たのは小6の時で、調理方法に劇的な変化や改革をもたらした。どちらにせよ「料理をすること」は勉強と同様で、自立の第一歩だと思った。
小5、小6は児童会の副会長や児童会長をやった。中学に入ると部活の朝練が6時半から8時まで毎日あった。部活がなかったのは1年間で7日間だけで、いわゆる「盆、暮れ、正月」、8月15日と12月29日~1月3日だけだった。学校や部活を休むということは言語道断、遅刻することも「犯罪」だと我々は教えらた。今では考えられないが当時としてはそれが普通だった。
「そうかぁ、なるほどねぇ。保育園と新聞配達、そして台所仕事に部活だね、たぶん。」
副住職には合点がいったようで、「小さいときからかなりきたえられたわけだ。それが当たり前だと教えられて育ってきたんだ。小さいときからの下地がその我慢強さの基礎にあるわけだね。最近はお寺の坊主として若者が10人入門すると厳しさに耐えられず4人ぐらいはすぐやめていなくなっちゃうからねぇ。ありがとう、よくわかったよ。」
副住職と二人きりでお話したのは後にも先にもこの時だけだった。副住職があまりにも忙しかったからである。あれから40年以上たつが、あの時、逆に私から副住職にお寺のことや仏教のことや人生の処世訓や修行そのものについて、いろいろお伺いしたかったなあと強くおもうことがある。朝のお勤めで拝見するその後ろ姿は強く、尊敬の念を抱かせた。凛とした雰囲気が住職や副住職には備わっていた。すごいと思った。もし自分が僧侶を目指し仏門修行をしたならばそこまでいけるのか?どのくらい頑張らないといけないのか?我慢強いと評価されたとしてもこの私が果たしてこの厳しい修行を我慢できるだろうか?
「分かったよ、高原君のこと。住職がおっしゃられた通りだ。」と笑顔でおっしゃった。
「『苦労は買ってでもしろ』というのは正しいと思います。」
私は副住職の目を見ながら申し上げた。
(つづく)