いつも通りの暑い7月だ。お寺の雑木林から蝉のにぎやかな鳴き声が、オーケストラのシンフォニーのごとく層をなして上から降ってくる。7月中旬からはじまったカナダのモントリオールオリンピックで日本選手団は大活躍し、日本国内はオリンピックで連日盛り上がっていた。
ご住職からの宿題の期限は、2週間後の8月15日。私はB6版のカードを駆使し、そのアイデアの発酵を待ちながら、「将来、自分がやりたい事100ヶ条」を完成させようとしていた。昭和51年7月下旬だった。
16才の高校1年生の男子。将来やりたい事は山ほどある。いつかオートバイに乗りたいとか、車を運転したいとか、空を飛びたい、飛行機を操縦したいとか、海外旅行に行きたいとか、苦手な器械体操をうまくできるようにしたいとか、学校の勉強がストレスなくスラスラできるようになりたいとか、英語をペラペラにしたいとか。
いつの日か自分の仕事をしっかりやって、社会の中でとても小さいけど耐久性バツグンの歯車の一つになりたいとか、休日の余暇や趣味を充実させたいとか・・・。
隣室の28才の修行僧に私のノートを見てもらったら、「やりたい事がたくさんあるんだね~ぇ。いいなあ、若いなぁ」と私を半ば揶揄しながら、ある人物の話を始めた。
「海外への渡航が禁止されている江戸時代末期の日本で港が2つ開港されたよね、箱館港(函館)と下田港。開港はされたけど日本人が海外に行くことは当時禁止されていた。でも箱館港から外国船に乗って密出航しアメリカへ渡った新島襄という人、知ってますか?彼はアメリカに上陸した。そして大学を卒業した。帰国後は京都に今の同志社大学を設立した。」高校での日本史で明治時代初期の教育史に、1872年の学制、福沢諭吉の慶応大学、新島襄の同志社英学校(同志社大学)が出てくる。その新島襄だ。「彼はどうしてもアメリカに行きたかった。行こうと思った。なぜかと言うと1776年のアメリカ建国や、国としての制度や、キリストの福音(ふくいん)が自由に語られ教えられていることなどを知り、強い憧れを抱くようになったからだ。だからアメリカに行きたくて行きたくて、そしてついにアメリカに行った。そして学んだ。」
「志というのは強い思いから発するもののことです。強固な志は、自らの未来を、将来を力強く切り拓くのです。」
新島襄の話を聞き、私の志はどこにあるのか?どこを目指すのか?私はまだまだひよっこで、曖昧模糊な設計図しか持っていなかった。強固な志からはあまりにも遠かった。箱館でロシア人司祭からの勧誘を受けたにもかかわらずそれを丁重に断り、「アメリカ行き」にこだわって海を渡った新島襄の熱い心を知れば知るほど、私の心の温度は低く、全くもって貧困極まりなかった。
(つづく)