高校1年生の昭和51年7月下旬、お寺のご住職との面談で宿題の宿題が追加された。最初の宿題で自分の人生で将来やりたい事、やってみたい事を100個書き上げたのだが、今度の宿題は、それらに優先順位を付け、優先順位の高い順に書き直せというものであった。優先順位を付けるには「基準」が必要となる。その「基準」はどうするのか?どのように決めたらいいのか?
家庭の環境や地域、コミュニティの中で自分に合った「しっくりくるもの」というのが徐々に形成される。耕された畑に種がまかれ、発芽する。芽はどんどん生長し、花が咲き実となる。その過程を通して自分に「しっくりくるもの」を感じ取る。たとえば料理を作ることが好きだとか、本を読むことが好きだ、またはスポーツはやるより見る方が好きだとか。対人関係なら、多くの人と会ってお話をするのが好きとか、いや一人でおとなしくじっとしている方がいいとか。
過去の経験を通して自分の物差しである「基準」が出来上がっていくのであろう。それを社会の常識に照らし合わせたり、先輩諸氏のアドバイスを取り入れて修正し、その「基準」は使えるもの、頼れるもの、守るものになると思われる。
そもそも10代半ばの私にも「しっくりくるもの」はあるのだが、その正体は見えない。まだその「基準」があいまいで未完成なのだ。だから優先順位が決められない。基準があいまいなのは、物事の見方が未完成だからだ。まだ人間としての体幹が圧倒的に弱い。
今回出された宿題は、その体幹をきたえ、己の基準を作り、人生の優先順位を明らかにすることなのだ。つまり「考えなさい。自分の頭で考えなさい。まだ考えることが不足していますよ。」という、ご住職からの教えと感じた。お盆まで約3週間ある。この3週間は徹底的に考えてみよう、自問自答してみよう。腰を据えてじっくり考えて考えて考え抜いて、優先順位を決めたい、そのためにも「その基準」を決め切りたいと強く思った。自分で自分を内省することだけを、多くの時間と労力を注ぐのは生まれて初めてのことだった。そしてそれはあたかも禅問答のように、問いかけ、思考、返答を繰り返す毎日だった。だが不思議なことに、それは苦しいけど1週間もすると楽しくなってきて、妄想に近いのだが、脳が暴走して思考が激走しだした。とめられない、とまらない。生まれて初めての経験だ。
たのしくてたのしくて脳が遊びだした感じがした。どんどんアイデアが湧いてくる。すごく楽しい。涸れない泉のような状態だ。自分でもびっくりした。でもはたして優先順位は、つけられるのだろうか?まとまるのか?考えだすととまらないため、寝るために横になっても脳が遊びだし、眠れなかった。夏の暑さも手伝ってかなり睡眠不足になってきた。でも次から次へと頭に浮かぶ新たな考えにかなり興奮気味となり、ハイになった脳はとても熱くクールダウンは不可能だった。もう7月が終わる、大丈夫だろうか?はたしてお盆までに「宿題」は間に合うのだろうか、
(続く)