夏休みが近づいてきた。二者懇談で保護者会があり、母が出席した。母はおしゃべり好きだが、私が家を出てお寺で居候をしていることは担任には話さなかった。担任は、男性の英語の先生で、人間的な奥行が物凄くある、重厚で穏やかな先生だった。私は小1から高1までで、このタイプの先生に会ったことがなかった。とても信頼できる先生だったが、母はおしゃべりにもかかわらず、相手が他人の第三者の場合には余計な事は一切話さない主義だったので、保護者会後に担任から私のあれやこれやを質問されることは全くなかった。でも「高原ら~ぁ、お前の目、最近いいなあ。授業中は特にいいなあ。心が充実しとるのかなぁ、背筋がピシッとしとる。いいか、それを継続させて、部活動も勉強も頑張れよ!」と声を掛けてもらった。自分で意識してやっていることではなかったが、精神的に安定してきたのは感じていたので、評価してもらえたのは素直に受け取れたし、うれしかった。
精神的にたくましくなってきたのは、第一にお寺での修行がきっかけになったことが挙げられるが、第二、第三の原因もあった。家庭学習の総量が増えたことによる充実感や学習するモチベーションが高くキープできたことや、読書量も増えた。これは隣室の「上のお兄ちゃん」の影響が大きかった。28才のこの修行僧は読書家で、1日1冊のペースで文庫本を読み、その本を私に回すのだ。この時期に梶井基次郎、夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川龍之介、伊藤整、三島由紀夫など次から次へと読破した。読書の楽しみが無限にどんどん広がって行く。楽しかった。特に寺に寝泊まりして読む、輪廻転生の物語、三島由紀夫の「春の雪」は、「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」と輪廻転生が続き、この『豊饒の海』四部作を読み終えた時は、この作品が持つ不思議な世界観と「つながり」の物語性に、深いため息をしながら何とも言いようのない読後感を初めて経験した。
規則正しい生活を通して心が整ってくると余裕がでてくる。今まで見えなかったものが少しずつ見えるようになってくる。見えてくるとそれを追求したくなる。それを少し追求しだすとそれがまた面白くなってくる。それって自分が今後やっていきたいことなのではないか?はたまた興味関心がただ高まっただけなのか?どちらにせよこれは面白そうだな、やってみたいなぁ!と思えることが少しずつ姿をあらわし出した。
以前住職から私へ出された宿題の「将来やってみたいこと100か条」(このシリーズのブログ、その5を参照)が書けるかもしれない!と思い、急いでノートを広げてメモった。
「考え」いうのは、考えが考えを生み、それが妄想になり、堰を切った洪水のようにどーっと速度を増してみるみる広がって行く。だから忘れないうちにメモる。優先順位を付けずひたすらメモる。箇条書きでどんどんメモっていくと60ぐらいになっってきた。
自分の興味関心や将来的な志向は、紙に書いてみるとよく分かる。これは住職が私を導いてくれる証だと思った。まだ60ぐらいの「100か条」、それ自体は自分の内面からの自発的な欲求だが、これはご住職のお導きそのもので、私の中から殻を上手に破って、そっと引き出してもらえたことがとてもありがたかった。指導者の力はすごいと思った。自分が住職の掌(たなごころ)の上に乗っかっていて、その上に今は居るけど、ここで成長し、いつか分からないがこの寺を出ていく日がいずれやって来る。七転八倒して、もがくだけもがいて脱皮するのだ。たぶんそれが私の、ご住職に対する一番の恩返しになるのだと思った。
「指導者の力」は、人の人生を変える力を持つ。この「指導者の力」は、その言葉の重みを増しながら、強くて正しい「指導者」になりたいなぁと思うようになった。だから「100か条」もすぐに書けそうに思えた。が、それは思えただけだった。10代の、「若気の至り」だった。
(つづく)